政治活動と市民運動・市民活動
しがNPOセンター 代表理事
阿部圭宏
香港の学生によるデモが連日大きく報道されている。わが国でも反原発デモ、特定秘密保護法反対デモ、集団的自衛権行使容認反対デモなどの市民運動が行われてきたが、マスコミでの取り上げられ方は、香港のものと比べると圧倒的に小さい。それはマスコミの意図によるものなのか、この国においては、市民運動など過去のものと思われているか分からないが、大きくマスコミで報道されないことも一つの要因となって、市民運動が社会のうねりとなりにくいのが現実だ。
そもそも、市民運動にはどうしても少数派の権力への抵抗という面があり、多くの市民の関心事とならず、結局は何もなかったように元のさやに納まってしまうことが多い。原発事故はなかったかのように再稼働の動きとなり、特定秘密保護法は政府の思うように運用されていく。これはよく指摘される日本人の特質だという言い方もできるかもしれない。このような市民の何をされても怒らないという態度が、権力者をより増長させていく。
私たちが取り組んでいるのは市民活動であり、時代は市民運動から市民活動へと移っているとする言説もある。市民活動は、社会のさまざまな課題を当事者、少数者、多様な価値観や視点を持って解決していこうとする活動である。
このコラムでも以前少し触れたように 、市民活動は、自らが社会的なサービスを開発して提供していく面が確かに大きいのでそこばかりに注目が置かれるが、社会に対して現状や課題を訴えかけて変革を求めるという運動性も実は持っている。しかし、現実の市民活動の場面では、どうしても日常の活動や仕事に追われ、運動面へのアプローチが弱いため、市民運動としての側面をどのようにエンパワーしていくかが問われていると言えるだろう。
市民運動的な側面は、当然、政治的な主義主張を前面に出して行うものであるから、政治活動としての側面を持っている。日本社会は、市民が政治的な主張や動きをすることを極端に嫌う。加えて、市民活動当事者も反対を主張する市民運動に違和感を持ったり、忌避したりすることが結構ある。あわせて、市民活動が政治的に無色透明と思われている面も大きい。NPO法では、選挙活動は禁止されているが、主目的としてでなければ政治活動をしてもよいこととなっている、。正々堂々と政治的な主張をすることは、同調圧力の強い社会の中では浮いてしまうことになりかねない。だからと言って、主張すべきことを主張しないと市民活動の果たすべき役割としては物足りない。
人権、男女共同参画、生活支援など、さまざまな場面で、市民活動団体のミッションを確認しながら、ロビー活動も含めた政治的な動きを自ら意識して作り出さないと、結局は権力者に都合のよい下請け組織に堕してしまう危険性もあるのだ。
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